誠実さはどこへ行くのか

最高位戦の佐藤聖誠プロのブログ。記憶によれば、彼はネット麻雀で名を売った後、プロの世界に身を投じた。もちろん、彼自身の精神史には違った風景が見えているだろうが。今は渋谷のフリー雀荘に勤めている。自分の見聞きした範囲だと、強い人と打ちたい、という客が集う店だという。本当だとすれば、非常にマニアックな話だ。
で上の記事。要旨をまとめると「麻雀プロの生き方には2種類ある。競技プロとタレントだ。現状は前者に傾いているので、麻雀競技人口の割に日が当たらない。自分が食っていくためには、後者が必要だ」といったところか。
誠実な言葉だと思う。自分の可能性を麻雀タレントに試してみようか、という話でもあるようだ。しかし、この種類の誠実さがどこへ行くのか、自分は知らないし、そこまで個人の心に入り込む繊細さを持たない。だから以下は、ためにする批判というか、妄想によって人をなじる話である。

まず難しいのは、「日が当たらない」の解釈だ。「日が当たる」というのは「BIGになる」と一緒で、実はよく分からない。
モデルとして挙げると(それ以上の他意はない)、二階堂姉妹の妹さんは麻雀が強い。全国のゲームセンターでファンに迎えられる。本も出してる。年収も、平均的なサラリーマンの何倍かはあるだろう。十分「日が当た」っている。
では、このレベルを全員が享受できるか、というと、間違いなく答えはノーである。麻雀プロ団体は広く捉えると7つあり、そのメンバーの合計はどう少なく見ても400人を超える。「麻雀人口の割に日が当たらない」という予想と同じくらいの確率で「麻雀人口の割にプロが多すぎる」という予想も成立つ。
となると焦点は、一体どのあたりが「日が当たる」と呼べる水準なのか、であり、それに応じた最適な戦略をいかに早く考え出すか、だろう。
個人的には、麻雀プロが今ぐらいの低い影響力しか持たないおかげで、これだけ麻雀人口が増えたのだから、日が当たるようになったら減ってしまうのではないかと危惧している。

2つ目は、30年間実現しなかった提言は、既に無理なのではないか、という点である。孫引きになるが、阿佐田哲也の発言を引いてみる。

阿佐田 麻雀タレントのこれからの生き方には2つあると思うんですね。1つには実生活や社会の表面から麻雀を切り離し、麻雀界を特殊村にして魅力を保つことです。(中略)もう1つは、麻雀タレントにプロレスのような渾名を付け(中略)絵空事の面白さで麻雀界を沸き立たせていく。悪ふざけにならず、水際立ったタレント振りが条件になるけど。(後略)

出典は分からないが、前後の文脈を読むかぎり、30年くらい前の発言とみてよい。今を観るに、麻雀界が特殊村として魅力を保っているとは言いがたいし、では絵空事の面白さで麻雀界を沸き立たせていっているかというと、これもまた難しい。
それこそ見方の問題で、「いや、実に魅力に溢れている」とか、「その通り。麻雀界は沸いている」という御仁もいらっしゃるかもしれない。佐藤プロ自身は、前者はある程度実現した、という考えを持っているようだが、特殊村の住人が麻雀タレントであると思っているのかどうかは、文章からは読み取れない。
自分は、自分以外の他人の精神の道行きをあれこれ言える人間ではない。ただ、半分当たって半分外れた提言を丸ごと信じるのは辛いことだと思うし、自分より若い世代が今を称して「道半ば」とするならば、少し落ち着きなさい、と言いたい。

――――それでは麻雀タレントが今すべきことは何でしょう。

阿佐田 前にも言ったが、自分のビジョンを具体化する作業だと思う。たとえば、古川さんは麻雀を離れても古川凱章という個性で生きていくのか、あるいは麻雀タレントとして内容を充実させるほうに進んでいくのかというような。善悪の問題ではもちろんなく、目的意識をはっきりした生き方を示さないと、後に控える麻雀タレント予備軍たちにとっても目標が定まらない。みんな右往左往してしまいますよ。

30年右往左往することを、世人は失敗と呼ぶのではなかろうか。


最後は、ギャンブルと麻雀の問題を21世紀の形に捉えなおさないかぎり、ブレイクスルーはありえないのではなかろうか、という点。
昭和40年代の麻雀ブームは、ギャンブルという物に大衆が抱く興味を、大きな拠り所にしていたはずだ。一攫千金はありえないと分かっていながら手を出してしまうのがギャンブルであり、小島武夫のイカサマに対しても、やっぱりそういう仕掛けがあるのか、という安心感と、あれが出来れば、という願望が入り混じっていたに違いない。
と同時に、ギャンブルは麻雀のメジャー化を阻み続けてきた。アサテツが控えめに、

しかし、麻雀の世界が、市民社会の中で、そういうように形を付けていくのに適した世界だろうかという危惧もある。

と表現した部分である。当時も今も、主流レートはテンピンであったと思われるが、30年前の100円と今の100円の価値を考えると、その重みは随分違う。ミュージシャンが大麻を吸ってたら罰を受けるように、麻雀打ちが公然とバクチを打ってたらやっぱり罰を受けたはずであり、それも含めた、ねっとりした視線を大衆から注がれていたはずだ。
しかし時代は移った。平成20年の今、麻雀で小遣い銭以上の金額を稼ごうと目論む人はほとんどいない。麻雀というショートカットをクリックして、身に余る金を得ようとするよりは、株価チャートや為替の動きを一日中見つめている方が確率が高いし、また痺れる。
時おりニュースでは、「容疑者はマージャンなどで多額の借金を抱え…」と報じられるが、○○○○とハッキリ言うのが憚られるだけで、麻雀で100万負けるのは、いじめで100万恐喝されるのと一緒のことだ。○○○○の金の動き方で逮捕されない時代に、麻雀で逮捕されるのは最早笑い話に近い。
となると、麻雀打ちの言葉の一つ一つが軽くなる。「金じゃなくてプライドを賭けてるんだ」というのは、実際に自分の生活が危うくなるくらいの金を賭けている人が言うから、負け犬の遠吠えとして、あるいは信条発露として活き活きと輝くのであり、本当にそうであれば、特に値打ちのない事実の告白だ。
別の側面から言うと、現在の麻雀人口の増加をもたらした大きな要因の一つは、マガジンの『哲也』と考えてよい。その原作者である、さいふうめいが、ヒットに恵まれなかった彼の作品『空拳の瞬』や『天狼』、あるいは『色川武大VS阿佐田哲也』中の評論で披露したギャンブル感はどちらかといえばオールドタイプであり、特に目新しいものはない。
この辺から取り繕いようがなくなるのだが、自分は、だからアサテツの言ったことはそんなに外れてないんだ、とは全く思わない。マンガに先にやられてしまったこと、それも少年誌での大成功し、青年誌で失敗した部分を、ノンフィクションが真似して成功するんだったら苦労は要らない、と思ってしまう。