バーチャルネット雀士のどっち15歳 | 「咲-saki-2巻」発売祭り

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大ブームを巻き起こしている麻雀マンガ『咲-saki-』の、2巻が先日発売になりました。各所で祭りが起こっているようですが、上記ページの方は、秋葉原の各書店を巡って特典を集められたようで、その努力に頭が下がります。
さて、『咲』で有名なのが「パンツはいてない」です。登場人物がこぞってスカートが短く、パンツをはいてないように見えるのが話題を読んだ現象で、この作品を語る上では欠かせない要素とされています。上記ブログでも、

という記事があるほどです。
今回はこの「はいてない」について思うところを述べてみます。

「パンツはいてない」に引かれた境界線

2巻を読んで気づいたのは、実は「パンツはいてない」ように見えるほどスカートが短いのは、清澄高校の1年生(咲・のどっち・タコス)だけ、という事実です。2年生や、他校の生徒に比べて、彼女たちのスカートは露出狂と呼んでも差し支えないくらいに短いのです*1
恐らくこのスカートの短さ(以下「はいてないライン」)こそが、リアルとファンタジーの間に作者が引いた境界線であると考えられます。
『咲』の世界がファンタジーであることは、特に異論がないでしょう。麻雀が高校の部活として人気があり、全国大会まで開かれ、参加者は男性よりも女性の方が圧倒的に多く、のどっちのパンツは絶対に見えないし、パンチラを取ろうとするカメラマンもいない。そんな世界はリアルには存在しません。
ファンタジーである以上、描写は原則として「作者が、あるいは読者がそうあって欲しいこと」に従います。咲が仲間とはぐれ、泣きながら他校の生徒たちと擦れ違った時、強い風が吹き抜けて彼らが仰天する、というシーンがあります。これは「誰かの気迫に圧倒される」という感覚をデフォルメし、可視化したものです。リアルでそれを感じる機会は稀であり、ましてやその感覚を人と共有することなどほぼ不可能ですが、そういう出来事があってもいい、と思う人がいるからこそ成立する描写です。タコスの「のどちゃんはオッパイでイカサマしている」というセリフも、多くの読者の欲望の反射だと言えます。
もちろん、気迫なんていう見えないものを全く信じない人もいますし、巨乳好きと同じくらい貧乳好きもいるでしょう。そういう人たちは、前者を読んで「ありえねーよ」と言い、後者を読んで「もっと言ってやれ」もしくは「どうでもいいからタコス(咲)の乳を見せろ」と心の中で叫ぶでしょう。実際の所、リアルとファンタジーの区別は人それぞれであり、その境界線をはっきりと自覚しているケースは少ないものです。

見なすしかない、ということ

話は変わりますが、ネット麻雀、あるいは麻雀格闘倶楽部では、コンピュータによる配牌・ツモの操作、という疑惑が常に語られます。初心者より上級者の方に良い配牌が来るとか、一発ツモの確率が異様に高いとか、そういった類です。
少し考えれば分かることですが、これは公正に牌山が積まれていると見なす、そのラインが人によって異なる、というだけの話です。麻雀の山の積み方、配牌の取り方から考えて、配牌に作為を持ち込むのは困難ですし、何を基準に「良い」「有利」を決める(トリガーを作る)のかも明確ではありません。何よりも、仮に不正があったとしても、参加者には何の対策もできません。要するに、自分の許容できる範囲内で、公正に積まれていると見なすしかないのです。
リアル麻雀ユーザは、伏せ牌してかき混ぜて山を積めば、また全自動卓を使えば公正と見なす人が大多数を占めます。この場合は、見なすというより、特に疑いなく「自然と」そう信じていると言った方が正確かもしれません。プロ団体では、伏せ牌したあと全自動卓に落とし込むように決めている所もありますし、全自動卓そのものを使わない所もあります。
そしてネット麻雀ユーザは、ゲームが生成する乱数表のバラツキがゲームを楽しむのに十分なほど高いと、あるいはメモリが十分確保されていると(初代ファミコンの最初のゲームソフト「NINTENDO麻雀」では、配牌のパターンが人間にも確認できるほど少数だったそうです。ROMの容量の問題でしょう)見なしているはずですが、その境界線に気づく人はほとんどいません。

見なすストレス

実情が見えないにも関わらず、××は○○だ、と見なすしかない場合、ストレスがかかります。麻雀においては、物理的な感覚から遠ざかるほどストレスが増大するようでして、ネット麻雀で上のような疑惑が絶えないのは、このストレスのせいだと思われます。
話を『咲』に戻しますと、ファンタジーがリアルから遊離している、その程度が読者にとって甚だしいほど、彼らのストレスが溜まります。結果、「ありえねーよ」「嶺上開花が得意技って、麻雀じゃねーよ」とこぼしたくなるのです。
『咲』と似たような設定を持つマンガ作品として、『とめはねっ!』があります。『帯をギュッとね!』や『モンキーターン』で知られる河合克敏さんが、現在『週刊ヤングサンデー』で連載している作品です。この2つは、

  • 高校の部活動を描いている(麻雀部と書道部)
  • 男子1人に対し多数の女の子がいる
  • あまりメジャーではない競技である

という共通点を持っています。

とめはねっ! 鈴里高校書道部 1 (1) (ヤングサンデーコミックス)

とめはねっ! 鈴里高校書道部 1 (1) (ヤングサンデーコミックス)

私がより安心して読むことが出来るのは、圧倒的に『とめはねっ』の方です。何故かと言えば、先ほど言ったように、私にとってファンタジーとしての遊離度が低いからです。
まず登場する風景や風俗が、自分の高校時代に近いので、共感しやすいことが挙げられます。また、杉・宮崎・斉藤といった『帯ギュッ!』の登場人物たちが、女の子に姿を変えて、今風に言えば萌えキャラ化して登場するのも大きな安心要素です。
比較すると、『咲』を読む際には大きなストレスがかかります。現実離れした描写をその都度「こういうものなんだ」と見なさなければならないからです。その象徴、ボーダーラインにあたるのが「はいてないライン」なのです。

はいてないライン」を超えた時

私が高校に通っていたのは20年近く前のことですが、田舎の学校だったので、女の子のスカートは今ほど短くはありませんでした。学年に一人だけ、膝が見えるスカートを穿いている子がいましたが、彼女を見た時の気持ちを率直に書けば「この人頭大丈夫なのかしら?」「男に飢えてるのかしら?」というものでした。とても失礼ですが、当時としては異常な感想ではないはずです。
もし20年前に『咲』を読んだら、私は途中で放り出したことでしょう。何でこいつパンツはいてないんだよ、と怒るでしょう。
しかし時代は変わりました。今や膝が見えないスカートを穿いている女子高生の方が少数派です。と同時に、ファンタジーとリアルのボーダーラインもどんどん上がっていき、現在「はいてないライン」は、まあ許容できる、と多数が認めるラインになりました。
私は「はいてないライン」に、リアルとファンタジーの境にある、大きな亀裂を幻視します。今後、もし「はいてないライン」が上昇し、咲やのどっちやタコスのパンツが見えるようになったら、一体何が起きるのでしょうか。それは苺パンツでしょうか。本当はノーパンであることが明らかになったら、何が私の中で変わるのでしょうか。その日を恐れ、かつ待ち望みながら、これからも『咲』を読んでいくつもりです。

*1:スカートのプリーツの数の違いも考慮すべきですが