プロ雀士吉田光太の横向き激闘記:降臨 - livedoor Blog(ブログ)

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協会のB2リーグに所属する吉田光太プロのブログですが、上の記事がきっかけで、コメント欄を閉鎖することになったようです。消されたコメントもあるようなので詳細は不明ですが、記事の内容がオカルトなので腹を立てた人が、強い口調で挑発したことが原因かと思われます。
オカルトVSデジタルの争い、麻雀板にはそれこそ腐るほど転がってますが、ブログで起こるのは珍しいことです。それは吉田プロの記事が優れた内容だったという一つの証拠になるはずです。
この件に関して幾つか感じていることを挙げますと、

  1. 「正しい麻雀」と「読ませる文章」は別物
  2. 吉田プロの文章はツクリゴトが少ない
  3. ネット上の議論で麻雀の強さを担保にするのは全くもって不毛
  4. 志を立てる人は常に辺境にある

という4点になるでしょうか。

「正しい麻雀」と「読ませる麻雀」は別物

麻雀プロが(将棋や囲碁などと異なり)麻雀の対局では収入を得られず、生計を立てることができない事実は、多くの人が知るところです。理由は幾つか考えられますが、その中に「麻雀を見せてお金(見物料)を徴収する、というのは大変難しいことだ」という点は含まれているでしょう。
後ろで見ていてギャラリーが面白いと感じる麻雀は、往々にして勝利に繋がりにくい。勝利に徹して打てば、ギャラリーが退屈してしまう。ミスター麻雀と言われたプロが陥った(と自分で言ってます)ジレンマですが、これはある程度の真実を含んでいます。
そして「見せる麻雀か、強い麻雀か」というのは対立項で語られがちですが、これは最終的には打ち手およびギャラリーの麻雀に対する理解度やスタンスの違いに帰せられるだけで、優劣はつけられません。もし「見せて、なおかつ強い」という打ち手がいればいいのでしょうが、そんなスーパーヒーローは今のところいません。
それと同じ関係が、麻雀について語る文章についても言えるのではないでしょうか。つまり、「語る内容が本当か嘘か」という判断と、「語り口が面白いかどうか」という判断は全くの別物ではないかと思うのです。
例えば、私は『近代麻雀』に連載されている須田良規プロのコラム「東大を出たけれど…」が嫌いです。愚にもつかない感傷に酔ってるだけだし、もしコラムの中に書かれている幾つかの出来事が事実なら、須田プロは下劣な人間だな、と思います。
しかし実際の須田プロは、恐らくコラムの中の像とは大きく異なっているでしょう。しょうもない感傷も、人でなしなエピソードも、その方が読者の興味を惹きつけ、ずっと読ませることが出来る、と計算された上でアウトプットされているはずです。
もう一つ例を挙げると、昨日紹介したとつげき東北さんの『科学する麻雀』を一読して、ああ凄いなぁ、と思い2度ほど読みましたが、3回目は今のところ考えていません。私にとっては、深く没入するほどの文章ではなかったということですけれども、それはいささかも『科学する麻雀』の価値を貶めるものではありません。
吉田プロの記事に戻ると、私は記事に書かれた直感のようなものがインチキだとも、人を騙すものだとも思いませんが、そういう風に感じる人がいることは分かります。それは何より吉田プロの文章の力が優れているからであり、その意味では、「悪影響を及ぼす」という懸念もあながち的外れではないでしょう。

吉田プロの文章はツクリゴトが少ない

上に書いたことと関係していますが、吉田プロの文章はツクリゴトが少ない。何故、須田プロのコラムや、文章力という意味では大きく劣る佐々木寿人プロのコラム「無礼男」が『近代麻雀』に連載され、吉田プロの文章は載らないのか、という話ですが、多分吉田プロには文章で自分を表現しなければならない、という強迫観念が少ないのでしょう。あるいは、麻雀でしか自分を表現したくないのか。
私は吉田プロが強いプロと見なしています。それは、私が最も信頼するAプロが、「ヨシダコータは強い」と認めているからですが、そのAプロは時々「麻雀は今のままでも面白いのに、分からない奴が多すぎるよ」とぼやくことがあります。
それを聞いた私は、そんなものですかね、と返すのですが、ま、そういうことでしょう。

ネット上の議論で麻雀の強さを担保にするのは全くもって不毛

コメント欄を一通り読んで、まあコメント欄を閉じるという対応は妥当ではないかと感じたのですが、最後のコメントに違和感を感じました。

赤入り麻雀をやれば特定の人に赤が集中する現象を見ることが出来る。
吉田光太プロを批判したいならせめてジパングで勝ち組になってからでないと。
相手の土俵に立てなきゃここの読者は誰も批判者を認めないから

というコメントなのですが、個人的には、リアル麻雀の勝ち組にならないと、自分の意見も聞いてもらえないような窮屈な議論は嫌です。
実力が反映されるルールを追求するスレの所でも書いたのですが、議論をする上で、麻雀の強さを担保に持ち出したり、リアル麻雀での出来事とネット麻雀での出来事に差を見出そうとしたりする人が多すぎます。友達同士、すぐ決着をつけられる場所にいるならともかく、ネット上でどうやって強さを証明したり、白黒をつけたりできると言うのでしょう。

志を立てる人は常に辺境にある

ある段階まで歳を重ねていけば、自分が正しいと信じる意見が、世の中の多数にとっては異端だったり、受け入れがたいものだったりするケースは必ず起こります。その際にどういう振る舞いをするかは人それぞれですが、一つだけ私が信じているのは、もしその状態を変えようとするのであれば、自分で行動を起こすしかない、というルールです。
多数者は基本的には何もしません。そもそも現状が間違っているという認識がないわけですし。だから自分が変えていこうとする=志を立てる、というわけです。
吉田プロは間違いなく、志を立てている一人です。どうでもいい日常茶飯事を綴ったブログでお茶を濁す麻雀プロが過半数を占める中、見返りが少ない麻雀プロという肩書を背負った上で、麻雀について人に訴えかける文章を、無料で読ませてくれるわけですから。
それを読者は理解しているから、コメント欄は基本的に荒れませんでした。いい文章といいコメントがあれば、ブログはいいコミュニケーションの空間になります。
もし仮に誰かが、そういう空間の中の文章にどうしても許容できない内容を見出してしまった時、その人は少数派になってしまう。じゃあどうすればいいのでしょうか。
答えはその人しか持っていないものですが、もし私が、ブログという場所において志を立てるなら、自分のブログを持つかな、という気がします。